41話 過去の彼と向き合う伊月
向き合って座っている二人は無言の中でじっと見つめあっている。話す気力の全くない伊月を見ていると、心が締め付けられていく。何か言葉をかけたいけど、別人の振りをしている今の自分に何か言える事はあるのかと考えてしまう。口にしてしまいそうな本音を溢れないように耐えている。「……貴方は」 自分にかけられた伊月の声を確認すると、虚な瞳が揺れていた。話すつもりがなかったはずだったのに、可愛い声が薫の心をじんわりと解いていった。何もかも正直に話したい気持ちが膨れ上がってくる。「なんだ?」 薫としての言葉はここで出してはいけない。自分に暗示をかけるように心の中で、何度も繰り返していく。何もなかったように取り繕うと、伊月の話を引き出していく。「どうして貴方は僕と婚約を?」「話が来たから、受けただけだ」 深い説明をすれば、自分の正体に気づかれてしまうリスクがある。最後の時まで、親父との約束を破らないように、安易的な言葉で繋げようとした。その事に、伊月は気づいていないようで、何かしら他にも理由はあるんだろう、と納得していた様子だった。「……僕には好きな人がいます、それでも僕を手放す気はないんですか?」 薫として関わっている時は、伊月のこんな表情を見た事がなかった。その対応を見ていると距離感がかなり開いているように感じる。彼に好かれていなかったら、こんな感じで対応されていたかもしれないと思うと、嬉しさが増していく。自分がどれほど、特別だったかを確認出来たから余計だ。薫は伊月の過去を親父から少し聞いていた。伊月にとってマスクの彼は拒絶するほど、嫌悪感を抱いているらしい。感情的になって、無礼な扱いを受けたなら報告をするように言われていたが、伊月も大人になったのだろう。完璧な対処だった。 空になったコーヒーを淹れにいくと、彼もお願いしますと差し出してくる。伊月も伊月なりに過去と向き合おうとしているようだった。コーヒーを淹れながら、次の言葉を考えていると、つい無言になってしまう。背中に感じる視線が痛い。伊月は彼の言葉を待っているのだ。41話 過去の彼と向き合う伊月 向き合って座っている二人は無言の中でじっと見つめあっている。話す気力の全くない伊月を見ていると、心が締め付けられていく。何か言葉をかけたいけど、別人の振りをしている今の自分に何か言える事はあるのかと考えてしまう。口にしてしまいそうな本音を溢れないように耐えている。「……貴方は」 自分にかけられた伊月の声を確認すると、虚な瞳が揺れていた。話すつもりがなかったはずだったのに、可愛い声が薫の心をじんわりと解いていった。何もかも正直に話したい気持ちが膨れ上がってくる。「なんだ?」 薫としての言葉はここで出してはいけない。自分に暗示をかけるように心の中で、何度も繰り返していく。何もなかったように取り繕うと、伊月の話を引き出していく。「どうして貴方は僕と婚約を?」「話が来たから、受けただけだ」 深い説明をすれば、自分の正体に気づかれてしまうリスクがある。最後の時まで、親父との約束を破らないように、安易的な言葉で繋げようとした。その事に、伊月は気づいていないようで、何かしら他にも理由はあるんだろう、と納得していた様子だった。「……僕には好きな人がいます、それでも僕を手放す気はないんですか?」 薫として関わっている時は、伊月のこんな表情を見た事がなかった。その対応を見ていると距離感がかなり開いているように感じる。彼に好かれていなかったら、こんな感じで対応されていたかもしれないと思うと、嬉しさが増していく。自分がどれほど、特別だったかを確認出来たから余計だ。薫は伊月の過去を親父から少し聞いていた。伊月にとってマスクの彼は拒絶するほど、嫌悪感を抱いているらしい。感情的になって、無礼な扱いを受けたなら報告をするように言われていたが、伊月も大人になったのだろう。完璧な対処だった。 空になったコーヒーを淹れにいくと、彼もお願いしますと差し出してくる。伊月も伊月なりに過去と向き合おうとしているようだった。コーヒーを淹れながら、次の言葉を考えていると、つい無言になってしまう。背中に感じる視線が痛い。伊月は彼の言葉を待っているのだ。
40話 勘違いの現実 ずっと薫と過ごした部屋で居続けている伊月は、現実から逃げるように耳を塞いだ、彼にとってどんな音も、心の不安定を引き出してしまう材料になっているようだった。二日間、何も食べずにいる伊月の様子を確認している部下は、ため息をつきながら、体を支えていく。「満足しましたか? これが現実なんですよ。貴方と彼は縁がなかったんです」 縁がなかったと言い切る言葉が強烈な痛みを彼の心に与えていくと、全身に見えない力がかかっているように、重力がかかっていく。こんな思いをする事は、初めての経験だった。どんな事があっても、乗り越えられる自信を持っていた伊月だったが、こうも直面すると、耐えられない。捨てられた現実を受け止めきれない心に亀裂が生じる。これ以上、傷つきたくないと思いながら、全ての言葉を遮断する。それしか自分を守る術を知らなかったんだ。「こうなるのは分かっていたはずですよ。好き勝手してきた報いですね。これ以上、説教する気はないんで、そろそろいきましょうか」 歩く意思のない彼の体を抱き抱えると、部屋を出る。まるで死体を運んでいるような感覚に陥りながら、ため息を吐いた。 カンカンと階段を降りていくと、彼の婚約者が待つ車が停車していた。彼の護衛をしている人達は、周囲を警戒しながらも、伊月を受け入れる体制を作り出した。「後は頼むよ。私はまだ仕事があるから」「はい、お任せください」 護衛をしている三人のうち、一人は自信たっぷりそう言うと、満面の笑みで送り出した。新人教育をしながら、護衛をしている他の二人に視線で合図を送ると、苦笑いが返ってくる。エンジンの音が唸り上げると、何もなかったようにその場を離れた。 二人は無言の中で同じ時間を共有し始める。過去ばかりを見ている伊月と、正体を隠しながら彼の様子を伺う薫の姿が対比を生み出していく。どんな言葉をかけたらいいのか考えてみるが、今の伊月には言葉で説得しようとしても、地獄に突き落とすだけだろう。マンションを出る前に電話で言われた言葉を思い出しながら、瞼を閉じた。「伊月には正体をギリギリまで明かすな。あ
39話 手放す過去 数日、伊月の様子を見ると連絡をもらうと、返事をして切った。薫がいない事を知った彼が今どんな状態になっているかを想像しながら、コーヒーを飲み干していく。普段なら飲まないブラックコーヒーも、何故だか今日は美味しく感じる。「……君の強さを見せてくれ」 いつでも自信満々で、輝いていた伊月の姿を思い出しながら、自分の願いを口に出していく。彼にとってどれだけ自分が大きな存在なのかを確認する事にもなる。今回の事は、二人の為にとっても今以上に成長を遂げれるはずだ。「しかし、あれには驚いたよ」 親父の部下が彼の想像に水を刺していくと、一人ではなかったことに気づいた。彼は苦シャリと頭を掻くと、苦笑いしながら答える。「彼の本当の気持ちを知りたかったんです。俺の我儘ですけど」「親父も驚いていただろうね。まさか薫くんがアドリブを入れるなんて思わないよ」 スーツ姿で、いつもとは雰囲気の違う薫は、いつきも知らない表情をしている。落ち着いていて、そこには色気が漂っていた。部下も、その色気に当たられそうになるが、その度に自分自身を調整しているようだった。 机の上には脱ぎ捨てられたマスクが異様に目立ちながら、空間を制していく。自分とは違う存在になれる、この道具に振り回されながらも、二人の為に、未来の為に、芝居の続きをしていこうとした。 親父に認められる為に、グレーな事もだいぶしてきた彼は、もう普通の生活には戻れない。彼を纏う空気も、人間関係も、全て闇に染め上げられているからだ。一度入ると、抜け出す事は出来ない。帰りのない道がそこにはある。 何処からか可愛らしい泣き声が聞こえてくる。それはまるで伊月のように思えて仕方なかった。「お腹が空いたのか、レイ」 何かを訴えるように、鳴き続けるレイの頭を撫でると、ドラックストアで購入した餌を取り出し、与えた。 ◻︎◻︎◻︎◻︎ 一日をかけて今までの自分の環境をクリアにしていく為に、断捨離をし始める。これ以上闇の世界を知らない人
38話 後悔と涙 全ての話が終わった伊月は、心の整理をする為に自由な時間を与えられた。その中には薫との関係性の区切りをつける事の意味も、含まれている。気が進まない彼の気持ちとは裏腹に、車は思った以上に早く目的地へと辿り着こうとしている。黒のセダンで送られた伊月は、薫に気づかれないようにする為に、少し離れたドラックストアへ誘導していた。キキッと勢いよく止まると、全てを記憶をかき消したい衝動を行動へと当てはめていった。「連絡する」 彼の言葉を聞きたくない伊月は、声をかけられる前に走り出し、今では車との間には距離が出来ている。そんな伊月の背中に向かって大声を出しながら、次へと繋げようと企む彼がいた。 早く薫に会いたい、今はそれ以上、何も望まない。その気持ちだけで無心で走り続ける。二人が時間を共にしていた居場所へ戻る為に—— その姿を見ている彼は、自分の正体を見せつけるように、マスクを剥がしていく。彼を知っているのは近くで眠っているカラスだけだった。伊月の知っている彼とは程遠い、大人の顔をしている事を誰も知らない。 必死で走っていた伊月の目の前に、薫の部屋が見えてくる。息を切らしながら、自分の限界を越えようとする彼の姿には、強引さが隠れている。離れていた時から、ずっと薫の寝顔を見ていた、あの時の自分を懐かしく思う。時間が巻き戻るのなら、何度でもやり直したい気持ちが彼を喰らっていく。 薫の部屋の前に着くと、ドアに手を当て、息を整えた。こんな顔を見られてしまうと、勘づかれてしまうと思った伊月は、精一杯、薫の望む自分を演じ始めようとした。「……出来るかな、僕に」 好きなのに、大好きなのに、誰よりも大切なのに、自分の気持ちを否定しながら、別れを伝えるなんて、今の伊月には到底出来ないだろう。それでもやらなきゃ、その矛先が薫に降りかかるのは見えている。遠回しでも、卑怯でもいい、学生時代のような自分の姿を思い出しながら、あの時の自分と重ねていく。「よし」 合鍵を取り出すと、ガチャリと鍵を回していく。あんなに身近に感じていた居場所が、今では
37話 新しい関係性 目の前に迫る選択の時は、近い。五分間しか与えられなかった伊月は、短い時間でも、自分にとっての最善を尽くそうとする。周囲の事を考えるのなら、ここは何事もなかったように受け入れた方がいいのかもしれない。それでも、どうしても諦める事が出来ない彼は、自分の素直な気持ちを言葉にしようと覚悟を決めた。「貴方とは婚約出来ません。僕には大切な人がいるから」 長い説明は必要ない。自分の為に時間を割いてくれている人達がいるのだから、簡潔に表現していく。ポツリポツリと言葉にすればする程、鼓動が早くなっていく。「もう決められた事だ。お前の気持ちは大切にしたいが、仕方ないんだよ」 二人の間に、親父が介入すると、全ての言葉を否定していく。自分の気持ちを大切に、と言っていた過去の親父はもういない。やっと言葉に出来たのに、こうも簡単に、拒否されるなんて思わなかった伊月は、唇を噛み締め、言葉を消化しようとしていく。助け舟を出してくれたのに、それを自分のものに出来ない彼は、自分自身を呪う事しか出来ない。「……なんで」「何か言ったか?」「いいえ」 顔を俯きながら、黙ると、その姿を見て、楽しそうに微笑んでいる。そんな親父の態度に気づく事なく、自分の世界に逃げ込もうとしている伊月は、彼の一言で一気に現実に引き戻されていく。「嫌いなら嫌いで構わない。最後にその大切な人、との別れの時間を作ろう。それが君にとって前に進む事になるのなら」 言葉の節々から、彼とは別人のような物言いに戸惑いながら、彼に視線を向ける。どうしてだか分からない、その言い方をしている人間を知っているような気がした。伊月の目の前にいるのは薫ではない。その現実を見ていると、ぐらりと宙が揺れ始めた。「それはいい。伊月、お前もそろそろ彼から卒業しないとな」「……」 親父の言葉に返事が出来ない。その一言で、自分の人生を変えてしまうから余計に。言いたくないし、言えない。無言で突っ立っている伊月を複数の視線が貫いていく。空間は彼にとって地獄のように砕け散った。
36話 親父が伊月を試す理由 全ての話を確認すると、胸を撫で下ろした。親父は内心ヒヤヒヤしていたが、彼は事をうまく運ばせていく。絶対的な存在の風貌を見せるようになったのは、伊月が姿を消してからだ。 自分の配下の人間を間に入れ、ずっと彼がここまで育つのを待っていた。最初会った時は、純粋すぎて、この世界では生きていけないように感じたからだ。自分が動く事で、彼にとっても、伊月にとっても冷却期間が必要と感じ、伊月を自由に出来ないように裏で手をまわしていたのだ。 「彼は思ったよりも、成長した」 「そうですね。七年も期間を設ければ人は変わるものですから」 直接会う事はしなかった。自分の影に気づかれては困るからだ。伊月に任せるのは危ういと感じていた親父は、全くタイプの違う存在を求めていた。 「今はいい。しかしいつか伊月はミスを犯す」 「試練を与えてどう対処するか次第ですよね」 「そうだが、無理だろうな」 罠を張った網に簡単に引っかかる自分の息子を見つめながら、ため息を吐いた。大胆な行動力も、自信家な所も危うさを感じていた親父は、自分が思っていた通りの結果になった時に、方向を修正していく。伊月の持っている力を全て彼に与える為だった。正体を明かさないように、忠告を送ると、二つの顔を完璧に使い分けながら、全てを進めていく彼が昔の自分と重なって見えていたのかもしれない。 「正体を隠す為に、このマスクを渡せ」 一つのマスクを渡すと、彼の元へと届けるように指示する。右側にキズが入った、本来の彼とは違うタイプの人間に化けてもらわないといけないと感じていたようだ。 「このマスクは……」 それはかつて子供だった伊月を可愛がっていたNo.2の顔に似せて作ったものだった。過去のケジメとして、違う課題を伊月は乗り越えなくてはいけない。その為に、必要なものだったんだ。